もうGood Morning

好きな映画、音楽について

「はちどり」の話しようぜ

元々、限られた数館のミニシアターでしか公開されないと思っていたんだけど、9月中旬現在、全国規模に上映劇場が拡大していて、なんだかすごいことになってきている。はちどり。この夏……いや、今年観た映画の中でも特によかったなぁ、と振り返ることになる作品に違いないと思う。

 

- 以下、ストーリーの核心に触れている場合があります -

f:id:oCaracal:20200917221857j:plain



 

2回観たんだけど、この映画が「構図」や「(撮られているロケーションの)構造」が物語の主題を反映するように徹底してこだわり抜かれた、ロジカルに丁寧に設計された作品であるとに気づくうちに一気に好きになった。


劇中に登場するロケーションは、ウニが住む団地も、学校からの帰り道も、タバコを吸う場所も、病院も、背景に何かしらの建物や壁が映るようになっている。窓の外一面に空が広がるような開放的な構図が出てこないように徹底されている。仮に空が写っていても、白く曇っている。ウニの兄が大学見学に行った写真でさえもそうだった。

 

常に壁に塞がれているような閉塞感は、主人公・ウニが自分の置かれた境遇に対して抱く感情そのものだ。

 

 学校に行けば「ソウル大学へ行くのだ!! 勉強しろ!!」と煽り立てられ、家では不仲の親がいて、店を手伝うことを強いられる (冒頭、夜におじさんが尋ねてきて「勉強が得意でも家族のために働くことに精一杯で、進学できない韓国女性」の存在を示唆し、ウニもまたそんな風に大変に暮らしていることを思わせる)。息苦しい。生き辛い。

 

家では、ウニの部屋は扉の近くにあり、壁一枚隔てれば外の廊下である。でも、部屋の窓から見えるのは向かいの団地の棟だ。手を伸ばせば外の世界に出られてそうな場所にいても、出られない。扉からは一番遠い、突き当たりにあるリビングで父親は踊り、母はランプを叩き割り、ウニは感情を剥き出しにして跳びはねる。心の一番奥にしか自由な感情がないことの投影のように、間取りが活用されている。

 

また、短期入院したウニは窓際のベッドを割り当てられる。でも窓の外の景色は隣の建物。「病院の方が落ち着く」と言ってはいたけれど、友達がお見舞いに来れば同じ部屋のおばさんたちがヒソヒソ噂する声が聞こえてくる。監視されているみたいに。


ただ、物語の最後で1場面だけ、何かに遮られずに遠くが見通せるカットが登場する。

明け方の河川敷で、崩落した橋を眺めている場面だ。ウニは、だいすきだった先生の墓標と向き合うとき、橋が落ちて出来た隙間から遠く向こうの空を見ることができる。

 

私たちの心の中で、ときには喪失や欠落が感情を解放させてくれる。その事実を優しく抱擁するように、この映画は2時間以上の時間をかけて長いタメをつくり、じっくりとその解放の瞬間へと誘うように作られている。

 

この映画の冒頭では、玄関でウニを出迎えた母は「ネギ、他になかったの? しなびてるわ」と言う。このセリフに集約されているように、青々として瑞々しい、おあつらえ向けの選択肢なんて人生においてはたぶん用意されていない。居る場所を変えても、何を選択してもどこかしら萎びているのかもしれない。

 

それでもそんな現実の中でも、瞬間的に自分を解放してくれる瞬間が訪れる。
漢文塾のヨンジ先生のもとに階段を駆け上がり、抱擁した瞬間に窓の外で風が吹き、鮮やかな緑が揺れはじめる場面のように。 (あのシーンが奇跡のように美しく、劇場では声を上げずに心の中で喝采を叫んでいた)

 

閉塞的な日常から、自分をどこか遠くに連れて行ってくれることを予感させてくれるような上昇体験がきっと待っている。トランポリンで跳ねるように、跳ぶ前の場所と同じ位置に戻る刹那的なジャンプではなく、樹々を揺らす風のように爽やかで優しい瞬間が。

【LITTLE WOMEN】グレタ・ガーウィグ版若草物語 (2020)のこと

「ストーリーオブ・マイ・ライフ/わたしの若草物語」を6/14と6/24の2回、映画館で観た。原作の小説は読んでいなくて、1949年の映画「若草物語」を予習として観てから臨んだ本作についてメモ。

- 以下、ストーリーの核心に触れている場合があります。 -

 

f:id:oCaracal:20200701232519j:plain

 

1949年版から追加されている要素はいろいろあるけれど、とりわけ終盤で、ジョーの書いた物語が実際に本として構築されていく場面がとっても良かった。

 

昔ならではの活版印刷の工程がテンポ良く映像化されているのだけど、活字を1つ1つ使って組み版を構成していく描写によって、1文字1文字に物理的に重さがあることを視覚的に伝えていて、自分の本を出版することが如何に希有であるかが伝わってきた。

 

さらに印刷後の折りたたまれた紙を挟んてぎゅーっと圧縮するところで、この本の中にジョーの人生がぎゅっーと詰まっていることが視覚的に表現されたように思えてそれがとても愛おしかった。当初は「身内の話なんてだれが面白がるのかしら」とジョー自信が姉妹に語っていたその物語が出版物として具現化された事実が讃えられているような、スカッとする映像だった。


現代の世の中では、リアリティーショーであれソーシャルメディアであれ、他人の人生をコンテンツとして簡単に消費できてしまう。それでスポットライトが当たる人もいれば、謂れのない誹謗中傷に晒される人もいる。

 

一方、この映画の最後に本が出来上がっていき、赤字に金色のタイトルが映えるシーンを見て、ある人の人生を物語として世に出すことは、元々はすごく丁寧なプロセスを積み重ねた先にある、誉れある営みだったことを改めて実感させられた。

 

 

時計じかけのオレンジを劇場で見た翌日にJOKERを観ての感想

【※表題の2作品についてのネタバレを含むので未見の方はご注意願います】

2019年10月5日。「午前10時の映画祭」で時計じかけのオレンジを観た。

 

この作品を初めて観たのは5年半くらい前。レンタルDVDで観た。冒頭40分くらいの、可視化された狂気とも言うべき鮮烈な映像の虜になったと同時に「こんな不道徳で残酷な仕打ちが楽しそうに見える自分は、異常なのか?」と思えてきて空恐ろしくなっていた。そういう怖さにゾクゾクさせられる体験により、自分がオールタイムベストを聞かれた時に真っ先に挙げる、好きな作品になった。

 

そんな時計じかけのオレンジをスクリーンで、しかも立川シネマシティのハイスペックなサウンドシステムで体験できた。優美に鳴り響くベートーヴェンの音楽がたまらない。

 

この作品が、いわゆる暴力・性暴力などの「悪いこと」を治療によって抑圧しようとする権力者と、その治療の影響から解き放たれ、自らの衝動に基づいて行動するように「完ぺきに治った」アレックスを通して、正義や善悪を自らの意思で選択するかどうか、をテーマの1つに据えているのだと改めて実感できた。

 

そしてその翌日にJOKERを観た。

f:id:oCaracal:20191012115807p:plain

(ポスターから作ったイメージ画像)

 

以下、作品のタイトルを「JOKER」、作中のキャラクターを「ジョーカー」と記載する。

 

JOKERで印象的なのは、社会に蔓延する怒り・悲しみ・憎しみがゴッサムシティに住む人々の間に蔓延し、このクソ過ぎる世の中に変わって欲しいという願いが積み上がった背景があって、シンボルのようにジョーカーというキャラクターが生まれてくる筋書きそのものだった。現実に現代社会で起きている社会のストレスの急上昇こそが油断ならない不安全状態であることを喝破している。

 

例えて言うなら、ジョーカーがマッチに灯った火だとして、ゴッサムシティという箱庭を可燃性の気体で充満させたのは社会の側だった。 

 

本作のジョーカーは、ダンスはとっても素敵だけど武術の達人というわけではなく、知能犯というほどとびきり頭がキレるわけでもなく、それでも圧倒的なカリスマ性を帯びた悪として劇中に誕生する。

 

それは彼が「何が笑えるか、何が悪かは自分で決める」ことを選択したからだと思う。その容赦無い意思決定力を獲得するに至る絶望の恐ろしさが心に突き刺さる作品だった。

 

時計じかけのオレンジとJOKERに共通するのは、「善悪の規範を他人や社会では無く自分で持つ人」というテーマだと思う。そういうキャラクターが僕は好きなのかもしれない。PSYCHO-PASS槙島聖護はまさにそうだと思う。

 

何がおかしいかは自分で決めてよい。

 

そう言われると、自分の内側に力が漲ってくるような気がする。

 

この記事の冒頭で、はじめてDVDで時計じかけのオレンジを観たとき「こんな残酷な描写が楽しそうに見える自分は、異常なのか?」と感じたことについて書いたけど、ここでいう異常かどうかっていうのは常識や社会通念が用意するモノサシを気にしているのであって、僕が、それがめちゃくちゃ楽しいと認識すれば、それは、めちゃくちゃ楽しいのだ。そういう肯定感に繋がる力が漲ってくる。

 

でもそんな風に思っていたら「気に入らない人間は痛めつけて良い。自分にはそう判断する自由がある」ということになってしまう。世の中が惨たらしい暴力で溢れていくばかりだ。どうしよう。

 

「何が悪かは自分で決める」ということは、裏を返せば「善き行い」こそ、他人の目や社会のルールではなく、私たちが自分の意思に基づいて執行しなくてはならない。

 

例えば差別的な発言による炎上のニュースがよく話題になるけど、「日本国憲法前文に書いてあるから人権が大事だ」とか「コンプライアンスは今のトレンドからすると要注意なんだ」みたいに、外部に規範求めて誰かを叩いたり或いは擁護したりしても、結局それでは、どうしていけないのかを自分で判断できていないと思う。

 

私たち自らが、何が正しいか、何が幸福に繋がるかを、自らの内なる規範によって選ばなくてはいけない。たとえ、よかれと思ってしたことが悲しさや憎しみを生んでいくことになるとしても。

 

世界がおかしくなっているのはもう「前提」となってしまった。だからこそ、何が「よい」とするかは私たちに一層シリアスに問われている。JOKERも時計じかけのオレンジも、その問いかけを鮮烈に突きつけてくる作品だった。

 

 

 

 

【余談】

ところで、JOKERで描かれている格差の広がり、貧困の拡大というのは今の日本でまさに起きている問題であって、そんな日本の状況に対する批評に切り込んでいたのが「天気の子」だったと思う。

 

「バーニラバニラ高収入♪」ソングが “東京らしさ”の一端として鳴ることは非正規雇用を増やして持続している日本の経済状況の象徴だと思うし、陽菜たちが食べるごはんによって、若い子たちが直面する貧しさを愚直に描いている。

 

JOKERもUsも天気の子も、既存の社会や体制が用意したセーフティネットの外側にいる人による大きな変革を描いている。だから今年の日本で「天気の子」が上映されたことが (売れてる長編アニメ映画監督が社会と向き合ってエンターテイメント作品を作り上げたという意味で)とても頼もしいように改めて感じられた一方で、日本の行く末に対する油断ならない不安が一層大きくなった気がする。

 

【天気の子】クライマックス以降の展開と、凪先輩の「凪」という名前について

BUMP OF CHICKEN藤原基央さんが小学生の時にテレビで「天空の城ラピュタ」を観て、自分の住む世界では空から女の子が降ってくるわけでもないし冒険の旅が待っているわけでもないことに絶望した、という話が僕はとても好きだ。で、7/31IMAX2Dで「天気の子」を観てから翌日結末について考えていたら、基央さんの「一方自分がいる世界では……」的な見方にによって、この作品に対する想いで頭が占有されてしまった。

 

【以下、作品シナリオの核心に触れています】

f:id:oCaracal:20190804090723j:plain

 

 

大気現象の異常化と引き換えに陽菜を空から連れ戻すことで、東京の街がずっとずっと降り続く雨でゆっくりと沈んでいくという展開に対して、もし帆高が陽菜を連れ戻さなかったら? について鑑賞後ずっと考えていた。雨が続いて夏に雪が降るような異常は回避されるだろう。でも、地球温暖化少子高齢化と窮屈な社会と世間により、日本は生きるだけで辛くて大変な場所にどんどんなっていく。働いても年金もらえないし、生き続けていても報われるのか定かでない場所になってしまってきている。止まない雨なんて降らなくても、結局、日本は経済的・文化的にどんどん沈んでいっている。そんなニヒリズムに陥ってしまう (じゃぁどう行動して何を変えたいか、というのは一旦置いておく。それはいずれちゃんと考えたい)。

 

そもそも「天気の子」というタイトルと一緒につけられた「Weathering With You」なんだけど、”Weathering” はもともと「風化」していく、古びていくという意味だ。ディズニーランドとかで、建物のドアや配管に対してサビや表面の剥げを美術的に描き込むことで長年使われて風化している雰囲気を出す、そういうのが「ウェザリング」技法だ。だから、日本がじわりじわりと沈んでいっても一緒に生きていこう、という思いを込めたフレーズなんだと思う。

 

現実離れした思春期の素敵なボーイ・ミーツ・ガールの一方で、社会に絶望しそうになる現実もまた描かれている凄い作品だと思う。

 

だから帆高と陽菜と凪がたどり着いたラブホテルで、からあげクンやカレーメシやカップ麺や焼きそばでパーティして、カラオケして、枕投げして、「これ以上、僕たちに何も足さず、僕たちから何も引かないでください。神様お願いです、僕たちをずっとこのままでいさせてください。」と帆高が願うシーンが僕は本当に好きだ。大量生産・大量消費・大量廃棄社会が生んだジャンクフードだって、誰かと幸せな一瞬を構築するためにテーブルを彩ってくれる。そんな風に、自分の手の届く範囲にあるもので、自分たちよりも大きな力を持つ者から、自分たちの小さな世界を守り通そうとする切実な強い願いが胸に響く作品だった。

 

この「何も足さず、何も引かないでいて」っていう感覚は凪くんの「凪」、つまり風力が釣り合って生まれた無風状態、動的な平衡状態に近いんだと思う。何もしていないから何も起こらないのではなく、いろんな方向からかかる力のせめぎ合いの結果として今の状態を保ち続けるような、つまり帆高が望んだもの そのものを言い当てているような名前だと思う。

 

 帆を高く掲げた船が荒波に揉まれる中、風が止んで穏やかに陽が射してきて、どこへも行けないかもしれないけどひたすら美しい一瞬が確かに待っている、そんなイメージを3人の名前からは想起する。

 —

 天井に描かれた龍の絵を解説してくれたおじいちゃんが言っていたように、大気を広い範囲で精密に観測し、データを残せるようになったのはここ100年くらいのことだ。また、私たちが日本で生活する基盤となっている資本主義経済だってそんなに長い歴史があるわけじゃない。私たちが「ふつう」「現状」「当たり前」と捉えているものは、一時的に「そういう状態が続いている」ものであることが多い。それを忘れずにいたい。

【名探偵ピカチュウ】エンドロールで流れるKygo&リタ・オラ「Carry On」を切り口に作品と向き合う

先週土曜日、字幕版をレイトショーで観てきた。
もともと予てから、もしポケモンが実写化されたらヌルっとした質感が強調されてしまって、元のゲーム画面やイラストから伝わってきていた可愛さよりもケレン味が強いクリーチャーとして映像化されちゃうんじゃないかという想定をしていた。

 

でも、実際観てみたらフシギダネエイパムコダックゴルーグもいい感じに3DCG版としてアレンジされていたと思う。コレジャナイ感ではなく、なるほどこうなるのか!! な納得感があった。

 

エンドロールで流れるKygo&リタ・オラ「Carry On」がとってもいい感じの曲で、そこから連想する点から作品について考えたことを書き記しておきたい。

 

f:id:oCaracal:20190518222254j:plain

 

【以下、作品シナリオの核心に触れています】

www.youtube.com

 

「Carry On」ではKygoのトラックの持ち味である、自然の広大さを感じさせるような開放感が、優しく包み込むように鳴っている。水平線の向こうに夕陽がゆっくりと沈んでいき、マジックアワーの空の色で辺りが穏やかに染まっている、そんな景色が浮かんでくる。パートナーと一緒に歩む果てなき旅路の半ばでそんな景色に出会えたらきっとすごくじんわりするね。

 

これまで自分はポケモンという作品の本質は「旅をすること」だと捉えていた。マサラタウンから離れて、選んだ相棒と共に旅立って、鍛えたワザで勝ちまくり、仲間をふやして次の町へ……という話の軸がゲームにもテレビアニメにも漫画「電撃!ピカチュウ」にも根本にあったはずだ。

 

旅路を想起させる、風と雲と冒険が待ってるようなスケール感のある「Carry On」がポケモンの映画の締めに流れる、それってすごくいいなぁと思った。


……でも、映画「名探偵ピカチュウ」のストーリーは大枠でいうと旅物語では無かった。そこに対して物足りなさを抱いたのも確かだ。けど、スマートフォンが普及して地球の裏側がGoogle Earthで眺められるようになった今という時代だからこそ「旅を描かないポケモン作品としての意味を考えたい。

 

劇中の世界線でも、おそらくかつてはポケモン図鑑を片手にポケモンマスターを目指すトレーナー達がいたのだろう。でも、どこにどんなポケモンがいるか、このポケモンはどんな特徴がある生き物なのか、という情報は時代が進むにつれて蓄積され、整備が進み、大部分はインターネットを通じて万人に共有される状態になっていたのだと思う。

ポケモンの生態に関して研究が進んで多くが明らかになった世界だからこそ「人間とポケモンが共に生きる街 = ライムシティ」を作ろうというビジョンに話がいくのだろう。

 

きっとそれは現実の世界と通じるところがあって、前人未踏の場所を開拓していくという営みの (本願として、宇宙や深海というフロンティアが待ってるぞ!! それはそれとして) 一方で、かつて別々のテリトリーで暮らしていた人と、同じ場所・同じ敷地の中で、どうしたら平和に生活を営んでいけるか?という大事なテーマを社会は抱えている。移民の話や、価値観を超えた相互理解という話と向き合わねばならない。

 

で、ポケモンと人間が一緒に暮らせるようにと創られた町において、長年ポケモンの研究に携わったハワードはミュウツーを使って、人間の魂をポケモンに移植しようとした。「共生」ではなく憑依、乗っ取りを選択したことになるよね。ティムとピカチュウの勇気ある連携によって、ハワードの試みは挫かれる。

 

一方でティムはピカチュウとの出会いと一連の冒険を通じて、親子の間にあった断絶を埋めることを決意した。

 

「Carry On」の歌詞にはこんな一節がある:

 

You, you found me
Made me into something new

 

この「into something new」っていうのは、他人との交流によって自分が新しい自分に出会う感覚なんだと思う。ティムもピカチュウ (とここでは便宜的に呼んでいる中の人)も互いにそういう変化を遂げることができたのがきっとこの作品だった。

 

他者を乗っ取るのではなく、他者との出会いによって自分をアップデートさせること。それが本当に大事なことなんだよ、と「Carry On」は伝えてくれているように思う。

 

これからの時代は特に、そういう考え方の重要性は他人事ではないと思う。

www.nikkei.com

 

---

本題と全然関係ないんだけど、字幕版で観たからポケモンは欧米における名称で呼ばれてて、コダックは「サイダック (Psyduck)」なのが印象的だった。PsychokinesisのPsy + duckなんだけど、日本語で「いつも頭痛に苛まれてるから "苛" ダック」という雑で勝手な意味付けができるね。このサイダックは劇中で「サイダアック!! サイダアック!!」って鳴くんだけど、鳴き声と種が一致するってことは歴史上、「このポケモンは "サイダック" って鳴くからサイダックと名付けよう」ってことになったんじゃないか。だとしたら面白い。日本語版では無効な想像だけどな。

 

ちなみに現実世界において「○○と鳴くからそれで○○と名付けた」生き物が存在する。ヌーがそう。 

zooing.honpo21.net

ちょっとしたトリビアでした。

 

個人的にベスト平成ソングを選んだ (10曲)

僕は平成元年生まれなので、1989年~2019年に日本でリリースされた曲を対象にベスト選びをするとなると、必然的に「これまでの人生のオールタイムベスト ~邦楽編~」を決めるということになる。90年代・00年代・2010年代それぞれのベストを選ぶのとは違う観点で、「自分のリスナーとしての趣向を決定づけてきた重要な曲」を挙げることにした。そんな感じで、ルールはこちらの企画に沿うようにしました:

 

ongakudaisukiclub.hateblo.jp


それじゃ10曲を紹介!! カッコ内は楽曲がリリースされた年だけど、テキストは出会った順に書いているので前後する箇所あり。

f:id:oCaracal:20190429144326j:plain


 


trfEZ DO DANCE」 (1993)

 うちでは両親が共働きだったので、学校から帰ってくるといつも家には誰もおらず、ひんやりと静まり返っていた。小学校2年生くらいの頃には、放課後に習い事が無い日はMDコンポ (このMDコンポという装置が実に平成ノスタルジックだね) を操作して、聴きたい音楽を再生していた。その中でも特に好きなのがTRFだった。アッパーな音楽にノッて、ベッドの上で飛び跳ねていた。
 今の自分のEDMやトランスが超好きな趣向はこの頃に醸成されだしていたのだと思うし、1人でいる時間を寂しいと思わず、自分なりの楽しみを見つけて生活するような魂の方向性は、幼少期には確立されていたことが今になって分かる。


SPEED「ALIVE」(1998)
 SPEEDは、歌唱力とかダンスとかスキル面以上に、楽曲やパフォーマンスから伝わってくる4人のエネルギーが抜群に強くて大きいユニットだったと思う。だからこそ、スケール感の大きなアレンジで、この世に生まれてきた命の煌き・自分や誰かがこの世に存在して生きていること自体の尊さを歌う曲がとても似合っていた。

 

Ramar「Wild Flowers」 (1999)
 子供の頃、音楽と出会う入り口としてアニソンは間違いなく大きな存在だった。1999年はデジモンアドベンチャーもワンピースも放映開始された年だけど、やっぱりゾイドが好きだったな。この曲のブリッジの「いつでも心を満たすのは 空の青さと風の声」という一節を聴いた瞬間、広大な大地で澄み切った青空に包まれた経験が実際にはなくても、その状況を追体験できて心がざわついてくる。歌にはそういう魔法が宿っている、そんなことを今でも感じさせてくれる曲だ。
 
 
w-inds.TRY YOUR EMOTION」(2002)
 僕は2000年から2002年の間はシンガポールに住んでいた。学年でいうと小5・小6・中1の3年間。滞在中は日本人小学校・中学校に通い、テレビはNHKの衛星放送を観ていた。当時はインターネットがまだそれほど身近なものとして普及しておらず、在住している日本人向けのラジオがSMAPの「らいおんハート」をヘビロテしていたのを覚えている。国民的に大ヒットする存在については準リアルタイムで情報が入ってくる、そんな感じの時間感覚だったと思う。

 そんなシンガポール滞在中の小学校6年生時の2月、ある日NHK以外のチャンネルも観てみたくなってテレビのチャンネルを回したら「MTV」に目が止まった。そこで英米のアーティストに出会ってハマるということも起こり得たはずだけど、僕が観たとき流れていたのは w-inds.TRY YOUR EMOTION」のPVだった。クールで先進的で、学校でみんなが話題にしている平井堅CHEMISTRYとは違った方向性で洗練された音楽が鳴っていた。まるで てれび戦士のように「君を退屈から救いに来たんだ」と画面の向こう側から存在を発信しているように見えた。

 2002年の3月に一時的に沼津の実家に帰った際、近くのCDショップ (当然今はもうない)で「TRY YOUR EMOTION」のシングルCDを買った。それが、自分が初めてお小遣いで買ったCDだった。


BUMP OF CHICKEN「天体観測」(2001)
 上記の「2002年の3月にシンガポールから一時的に沼津の実家に帰った」タイミングで、小4まで通っていた小学校の友達の家に遊びに行った。そのとき「最近じゃ、みんなこれにハマってるんだ」と聞かせてくれたのが、リリースされて1月ほど経ったタイミングのBUMP OF CHICKEN「jupiter」だった。1曲目「Stage of the ground」を飛ばして2曲目「天体観測」をまず聴かせてくれたのだと思う。

 その友人宅の今のコンポで天体観測を大音響で聴いたとき、豊かなハーモニーとスピード感で響き渡るギターイントロに完全にノックアウトされた。これまでとは違う組成の血液を自分の心臓が力強く全身へ送り出し始めたような気がした。
 中学3年間はほぼBUMPしか聴いていなかった。


GOING UNDER GROUND「同じ月を見てた」 (2004)
 高校で軽音楽部に入って、音楽はより身近な存在になった。好きなバンドも増えた。それで高校1年のときに初めてライブを観に行った。近くの大学の学園祭に来てくれたGOING UNDER GROUNDだった。

 そのライブで演ってくれた曲で一際グッと来たのが「同じ月を見てた」だった。この曲って「ロックバンドが4つ打ちビートの曲を演る」フォーマットなんだけど、アゲる・躍らせるという感じじゃなくて、郷愁とか切なさとかに心置きなく浸らせてくれるような、しっとりしたしなやかなビートが鳴っているんだよね。それが歌に本当によくマッチしてる。

 

泉こなた柊かがみ柊つかさ高良みゆきもってけ!セーラーふく」 (2007)
 高校の頃から洋楽をたくさん聴くようになった。同世代の大学生が らき☆すたハルヒを通過している一方、僕はアークティック・モンキーズフランツ・フェルディナンドやクラクソンズが好きだった。で、ロッキング・オンCROSSBEATを読んで「世の中には英米の音楽に関心を持っている人がたくさんいる。僕もその仲間になりたい」と思っていた。
 でも自分が大学に入った2008年って、(たぶん、自分のいた大学がある種の特異点だったのだろうけど)大学生にとって、みんなの共通の話題といえばニコニコ動画だったと思う。カラオケに行ったら誰かが「God Knows」なり「エアーマンが倒せない」を入れていた。当時、自分が抱いた雑な括り方での印象でいうと「オタクカルチャーがメインストリームで、欧米の音楽はそれ自体がオルタナティブ」であることを実感した。
 で、11月に学園祭があって、屋外ステージで「踊ってみた」イベントを結構大きな規模で演ってめちゃくちゃ盛り上がってるのを目の当たりにして、その場のエネルギーの大きさに圧倒された。 
 その「踊ってみた」ステージの中心にあった楽曲こそがが「もってけ!セーラーふく」だった。あのときの学園祭を通じて、前述でいうところの "オルタナティブ" 側に関心を持っていた自分が "メインストリーム" で起きていることの凄さ・すばらしさを正面から受け止めたのだと思う。
 
 
サカナクション「夜の踊り子」 (2012)
 自分が洋楽をたくさん聴くようになったとき、リアルタイムで英国で起こっていたムーブメントが「ニュー・レイヴ」だった。どんな音楽シーンの潮流だったのかを一言で表すなら「ロックバンドが踊れるビートやシンセを取り入れてクラブミュージック側に接近した一方、トラックメイカー達はディストーションシンセや勢いのあるリズムを取り入れてロックのダイナミズムに手を伸ばしていた」ような、異なるシーン同士がお互いに歩み寄るような蜜月関係でダンスミュージックがアップデートされた瞬間だった。ニュー・レイヴというムーブメント自体は2008年頃には下火になってしまったと記憶しているが、カルヴィン・ハリスのアルバム「Ready for the Weekend (2009)」とかからはこの時期の残り香が漂っている感じがして、とてもいい。
 
 さて、「ニュー・レイヴ」とほぼ同時期の2008年前後、日本ではサカナクションやテレフォンズ、80kidzらが日本で「踊れる音楽」をアップデートさせていた。その後サカナクション幕張メッセで単独公演が打てるレベルの大物に育ち、今なお支持とスケールを拡大させ続けている。アルバム「DocumentaLy」の後でどんな新曲が来るかなと楽しみにしていたタイミングで放たれた「夜の踊り子」は、ブレイクしたサカナクションがさらに先へ進んでいける突破力を示してくれた、痛快な一撃だった。
 
 
水曜日のカンパネラシャクシャイン
 世の中、歌を作ろうとする人・作詞する人は、意味とかメッセージとかに心を割きすぎているんじゃないかと思うことがある。そういうことがしたくて音楽をやっている人達だろうからそれはそれでいいのだけど、音楽というのは鳴っているだけで素晴らしいのだ、意味はさておきリズムや語感そのものがエネルギーと快感の奔流を生み出せるのだ、ということに自覚的なアーティストに出会うと「おおっ!!」となる。たとえ歌詞の意味が「北海道来いよ」という6文字に要約できたとしても、それで楽曲の持つ途方もないエネルギーが縮退するなんてことはない。むしろ、意味が単純だからこそ、「意味」という枠の中で楽曲が評価・解釈されることから自由になり、私たちの中で大きな存在として膨れ上がっていく。「シャクシャイン」はそんな曲だ。

 

a flood of circle「BLUE」
 でもやっぱり、歌詞の内容に心が強く突き動かされることってあるよ。人生ままならないことがいろいろあって、思うように前進できていない、どっちが前なのかすら分からない、時間が解決してくれる目処なんて立ちはしない、という状況にあっても、選んできた道のりの正しさを祈りたくなったときに道標になってくれる曲をAFOCの佐々木亮介さんは生み出し続けてきた。その中でも特に「BLUE」が好きだ。

 

というわけで10曲でした。

アルバムも選ぼうかな。選ぶとしたらすげぇ悩むな。

【スパイダーマン: スパイダーバース】チャンス・ザ・ラッパーのポスターとストーリーの密なリンクを紐解くぞ

 3/16にレイトショーでスパイダーマン: スパイダーバース [2D吹替]を観てきた。圧巻の映像体験だった。CGアニメにコミックが動いているような演出を加えるだけでなく、ゲームをプレイしている感覚の「キャラクターが画面の中心にいて、手前に向かって走って来る時に角を曲がると背景がぐるっと回転する」ような描き方が取り入れられていて面白い。

 劇中に出て来る小物や各種アイテムにもこだわりが効いていて、主人公・マイルスの部屋に貼ってあるチャンス・ザ・ラッパーの「Coloring Book」のポスターにはニヤリとさせられた*1

Coloring Book

Coloring Book

  • チャンス・ザ・ラッパー
  • ヒップホップ/ラップ

 

 

【以下、作品シナリオの核心に触れています】

f:id:oCaracal:20190321113435j:plain

  「Coloring Book」のポスターは「チラッと映る」レベルじゃなくて、寮の部屋にスパイダーマン達が到着し、ピーターがマイルスに部屋に残るよう説得する大事なシーンで執拗に映る。このポスターは何なのかということを考えていくと、本作との深いつながりが浮かび上がって来るように思える。

 

Coloring Book」というミックステープ

 

 シカゴ出身のアーティスト、チャンス・ザ・ラッパーが2016年に発表した「Coloring Book」という作品について。この作品はCDダウンロード販売も無く、ストリーミング配信のみでリリースされた。有料販売無しの「Mixtape」という位置付けの作品でありながら、ビルボードのチャートで全米初登場8位にランクインする (近年のヒットチャートでは純粋な売り上げだけでなく配信サービスの「再生数」等も加味される)という快挙を成し遂げた。 

thesignmagazine.com

 ちなみにどんな音楽作品かというと、ラップのカッコよさとゴスペルのような多幸感がポジティブなエネルギーを溢れさせる、音楽が最高に楽しいものであることを改めて強く実感させてくれる一枚だ。2016年の年間ベストアルバムに挙げた人もたくさんいたと思う (もっとたくさん語るべきポイントがあるのだけど映画の話にフォーカスするために紹介はあっさり目に留めておく)。

 

 ペインターのマイルス、テープを再生するアーロンおじさん

 

 「Coloring Book」すなわち塗り絵帳というタイトルがそもそも「スパイダーバース」のテーマに見事に繋がると思う。塗り絵は、既にある線画を自分なりの色で塗り上げていくものだ。「スパイダーバース」では、スパイダーマンというヒーロー像が既に確立されている状況で、マイルスはそれを新しく自分の色で染めていくことを選択する。だからこそマイルスはグラフィティアートを楽しむ少年: キャンバスを自分なりの色で染めていくキャラクターであることがバッチリハマる。

 

 アーロンおじさんに連れられて地下鉄の線路を辿って行き着いた場所で「Great Expectations」にインスパイアされたグラフィティを壁に描いていく時、おじさんはカセットテープでBGMを再生していた。今ならスマホからBluetoothスピーカーで爆音再生もできるのに、あえてカセットのミックステープを再生する。それも「Coloring Book」がCDではなくmixtape名義だったことと重なってイイね。

 

 そう考えるとチャンス・ザ・ラッパーというアーティストはマイルスの「推し」というだけでなく、マイルスとアーロンおじさんの繋がりにおいて大事な存在なんだと思えて来る。 

 

Same Drugs」の歌詞のこと

 

 アルバム「Coloring Book」の中でも特に印象的な「Same Drugs」という楽曲*2について。この曲の歌詞には塗り絵というモチーフに密接に関わるラインが出て来る。

 

Dont you color out

Dont you bleed on out, oh

Stay in the line, stay in the line

 

 はみ出していかないで。

 外れていかないで。

 ラインの内側に留まっていて。

 

 という風に意訳できるのかな。この曲が劇中でかかるわけでもないんだけど、このラインをスパイダーバースの内容に重ね合わせてみたい。 

 線画というものを「既存のスパイダーマン像」に対応させる見方を前述したけど、それとは別に「はみだす/逸脱していく」ということを、家族を顧みない・周囲の犠牲を厭わないヒーローになってしまうことだと考えると、最後の方でスパイダースーツを着たまま父親と抱擁するのが一層感動的だ。「ラインの内側に留まる」ことはマイルスにとっては恐らく「ヒーローとして活躍しながら、大事な家族と居続けること」だから。

 

 

 僕は吹替版しか観ていないのだけど、エンドロールのTK from 凛として時雨P. S. RED I」はすごく良かったと思う。今回の映画は多次元宇宙からいろんなスパイダーマンが集結する作品なので、サントラのテイストに対して良い意味で「異質」な楽曲がブチ込まれるのが気持ちいい。

  この曲は、ギターと打ち込みとストリングスとピアノがスリリングに絡み合って展開していくところが作品の魅力 (登場するスパイダーマンの多様さ、画面の情報量の多さ)と繋がっている。Aメロ → Bメロサビのような繰り返しが無く、どこまでも走り続けていってしまうような構成になっているのが「一度変身して悪と戦うことを選んだら、二度と元には戻れない」運命とリンクしている。

 

*1:

正確に言うと現実の私たちの世界でリリースされている音源のジャケットとは細部が異なっている。現実のジャケットではキャップの数字が「3」だけど映画の中では「4」になっている。このページのNo.12に記されている

amecomi-info.com

 

 

*2:

20188月のサマーソニックでチャンス・ザ・ラッパーが来日した時の幕張公演。「Same Drugs」冒頭で日本の観客からシンガロングが沸き起こるのを観て、ステージに立つチャンス君は手を叩いて喜び、涙を拭っていたという。感動的瞬間だ。僕はその様子をTwitter越しで知った。

https://twitter.com/mami_neon/status/1031129688519786496