もうGood Morning

好きな映画、音楽について

【ブリグズビー・ベア】自分の中だけにいるヒーローのこと

この映画すごくよかったのでHPを見返してみると、ジェームズが俯き加減の神妙な表情をしつつめっちゃ可愛いブリグズビーTシャツ着てる写真があったりして和むよね。右手挙げてるやつ ∩(゚ω゚`)。

 

【以後、作品シナリオの核心に触れています】

 

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作品シナリオの核心に触れているとは書いたものの、人物相関とか話の展開とかは脇に置いておいて、最後らへんのシーンの話だけしよう。

 

ようやく作り上げた映画をプライベートな上映会で披露することが実現したジェームスだが、自分の作品が酷評されることを恐れてトイレに篭ったりチケットカウンター周辺で黄昏たりしてしまう。しかしシアターに入ったジェームスはスタンディングオベーションで迎え入れられる。ステージ下手を見ると、そこにはブリグズリーがいて、左手のデバイスをピピピと操作して消えてしまう。

 

これって、ブリグズビーからジェームズに宛てて「君はもう、僕がいなくても大丈夫だよ」ってメッセージが届けられたみたいで目頭が熱くなった。ジェームスは「ブリグズリー・ベア」という番組のファンである以上に、キャラクターとしてのブリグズリーに対して強い愛着を抱いていた。決して諦めない勇気と信念を持ったヒーローとして。

 

そんなジェームスの前からブリグズリーが消えるシーンは寂しいお別れのようにも映った。でも、揺るぎない信念に突き動かされて、諦めずに自分の映画を作り上げてみせたジェームスは、ブリグズリーにも引けを取らない一人前の立派なヒーローだ。ジェームス自身が、自分の中のヒーローと同等の資質を獲得した: つまり彼自身がヒーローになれたからこそブリグズビーは安心して姿を消したのだと思う。そんな風に見えた。

 

作品のラストで

  • 主人公を導いてきた存在が
  • 主人公にしか見えない姿で現れ
  • 主人公がそれを見て優しく微笑む

という展開を見て、僕はついつい「スター・ウォーズ エピソード6/ジェダイの帰還」を思い出してしまった。エンドアの宴で霊体として現れるオビ=ワンとヨーダとアナキン (の、姿がセバスチャン・ショウからヘイデン・クリステンセンに改変された件*1はここでは気にしないでおくとして)、それを木陰から見て微笑むルーク……のシーンを連想した。マーク・ハミルつながり。


このときのルークは、かつての師や実の父親に胸を張って対面できる一人前のジェダイ・ナイトとしてそこにいた。その構図は、前述の「ジェームス自身がヒーローになってブリグズビーと顔を合わせる」感じと通じていると思う。


ルーク・スカイウォーカーはレイアやハン・ソロら反乱軍のメンバーと共に戦い、父親のダークサイドを葬ることに成功して、銀河に平和をもたらした。ジェームスはスペンサーやヴォーゲル刑事、そして妹達と一緒にクリエイションに没頭し、自分の過去にまつわるネガティブなイメージを払拭することに成功して、自分の居場所を作ることができた。架空のテレビ作品を見続けるシェルターではなく、他者と暖かく心を通わせることのできる、開放的な居場所。

 

ジェームスだけじゃなくて、役者として演技することが憧れだったヴォーゲル刑事 (イケボすぎる)、映画を製作したがっていたスペンサー、そして何より実の息子に会いたがっていた両親……みんなにとって暖かい居場所が立ち現れた。セラピストの先生は脱走騒ぎで困っただろうし、アリエルを演じた子持ちのダイナー勤務お姉さん (ホイットニー)はひょっとしたら不本意だったのかもしれないけどそういうのをわざわざ画面に映さないでおいてくれるところまでいいなぁーと思った。

 

ちなみにジェームスは何かを検索するとき、知りたいこと・やりたい事をそのままダイレクトにタイプしていた。これは本当に有効な方法だ。「検索ワードを思いつくのはリテラシーが高い人」といったような意図のツイートか文章を見たことがあって、実際そうなんだろうとは思う。だけど検索用にキーワードを抽出するのではなく、知りたいこと・やりたいことをそのまま打ち込めば、今時は検索エンジン側が超賢いので必要な情報は抽出してくれる。

 

そんな風に、システムまでもジェームスに味方してくれてた映画だなぁってことにすると味わい深い。

 

*1:この改変はルーカス・フィルム側との裁判によるものらしい。大人の事情といってしまえばそれまでなんでけども、せっかくなので「若者だったときのアナキン」が最後に現れる意味を肯定的に解釈したい (それだけで一本記事が書けそうなテーマだ)。アナキンが「フォースにバランスをもたらす者」になったことを、ダークサイドに堕ちる前の自分の心を取り戻したことであると読み解けば、シスの暗黒卿に堕ちる前の若い姿で再登場し、ルークの憧れた「勇敢なジェダイ・ナイトにして銀河随一のパイロット」の時の姿で自分の息子の前で現れるのは良い演出だと思う。

【メッセージ/あなたの人生の物語】ヘプタポッドの言語ってこんな感じで出来てるんじゃない?

公開から1年以上経ってるけど最近またずっと映画「メッセージ」のことが原作小説含めて気になり出していた。というか初めて原作を読んだ時からずっと気になり続けている。

 

【以後、作品シナリオの核心に触れています】

 

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……去年のフジロック2017、2日目。コーネリアス登場前のステージ上スクリーンに投影された円環状のシンボルは、まさに映画「メッセージ」に登場するヘプタポッドのロゴグラムのようだった。

 

 

劇中のエイリアン: ヘプタポッドは、未来のことを既知として認識できる能力をもって世界を捉えている。噛み砕いて表現すると、「最終的にどうなるかが最初から分かっている」状態で生きている。

 

使っている言語によってその生き物の思考が既定されるという前提からすれば、ヘプタポッドの使用する言語は、文章のはじめから終わりまで全ての情報が同時に伝送されるような方式に則っていて、そういう言語を扱うために過去から未来までの情報を同時に保持できるということになる。

 

それって一体、どんな情報を届けるコミュニケーションになるんだろうか……?

 

 
<思考実験>

 

ピアノがある。

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ピアノでなくても、和音が鳴らせる楽器なら根本の原理的にはOK。

音階に言葉を割り当てておいて、

  • 主語を表す音
  • 述語を表す音
  • 目的語を表す音
  • 肯定/ 否定/ 疑問を表す音
  • etc...

を和音として同時に鳴らすことで、ひとつの文章を1個のコードで表現することを考えたい。1個のコードとして鳴らすことで、コードが伝わった瞬間に文章の全体像が届き、文章の結論が提示されることになる。これなら人間のように文章を頭から逐次的に処理していくのではなく「最終的にどうなるかが最初から分かる」様式に使えそうだ。

 

音で情報を伝達する方法にモールス信号があるけど、あれはトン・ツー・トン・トン・ツーという具合にリズムによって情報を表現しているので、結局逐次的処理が必要になる。だからリズムではなく、音階を利用することにこだわる。

 

以下のようにドレミファソラシドとド#、レ#、ファ#、ソ#、ラ#の合計12の基本の音階を「品詞」に割り当てる:

 

表1. 基本の音階に対する品詞等の割り当て (例)

 基本の音階  品詞
 ド  主語
 ド#  主語に対する修飾語
 レ  述語
 レ#  述語に対する修飾語
 ミ  目的語1
 ファ  目的語1に対する修飾語
 ファ#  目的語2
 ソ  目的語2に対する修飾語
 ソ#  補語
 ラ  補語に対する修飾語
 ラ#  肯定/否定/疑問/命令を決める語 
 シ  文型

 

 ドは主語を表現することにしたけど、具体的にどんな言葉を表すかはもっと細かい音階によって表現する。基本の音階のドが523.25 Hzのドだとして、以下のように「最も近い音はドなんだけど523.25 Hzよりちょっとズレてる音」を用意して言葉を割り当てていくよ。

 

表2. 詳細な音階に対する言葉の割り当て (例)

 音階に対応する周波数 [Hz]   対応する言葉 
 523.30  I
 523.35  You
 523.40  She
 523.45  He
 523.50  It
 523.55  We

 

0.05 Hzずつ周波数を変えて言葉を対応させているけど、もっともっと細かい刻みにしていくことで理論上は無限個の言葉を用意することが可能だ。とてつもなく緻密に調律できるピアノがいるね。


この考え方を推し進めていき、以下の8音をコードにすれば「28歳の私は刺激の無い人生を無難に選択するの?」という文章が表現できる。

 

表3. 例文                

 最も近い基本の音階    適当に決めた周波数 [Hz]   伝える言葉、文体、文型 
 ド  523.300   私
 ド#  554.374  28歳の
 レ  587.345  選択する
 レ#  623.264  無難に
 ミ  659.777  人生
 ファ  698.896  刺激の無い
 ラ#  422.221    疑問
 シ  493.900  SVO

 

同じ品詞の単語が複数必要な場合はオクターブ上の音を使うことで対処すればいいと思う。


原作小説の中でルイーズがヘプタポッドの出す音を「ずぶぬれになった犬が身をぶるっとやって体から水をふりはらおうとしている」と形容しているけど、それがつまり複雑な和音だとすれば、音階を分解することで情報を抽出できる (ルイーズが手配する「音響スペクトログラフ」は、まさしく周波数解析によってどんな音階が発せられているかを特定できるものだ)。


この形式に似たような何かを用いるとして、ヘプタポッドは文章の送り手が送信したい内容を (上記の例文でいうと8音を順番に処理するのではなく)一瞬で和音に置き換えて情報を伝送する。受け手はそれを一瞬で分解して理解する。それが可能なら、最終的な結果が最初の情報と同時に分かるようなパラダイムで生きていると言って差し支えないはずだ。

 

ロゴグラムにも話を広げちゃえー

作品の中ではヘプタポッドの音声言語と文字 ("ロゴグラム" と呼ばれた円環上のグラフィック)はぜんぜん関係がないように見える、ということになっているけどせっかくの思考実験なので関連付けてみようと思う。これまでの話の流れから、コードを2次元的に可視化すればいいだけだ。

 

以下のように基本の12音: ド、ド#、レ、レ#、ミ、ファ、ファ#、ソ、ソ#、ラ、ラ#、シをシンボル化する (アルファベットと#に線引いただけ)。

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この12シンボルを円環状に並べる。円周を12等分するとそれぞれのセクションが品詞などを表していることになる。回転させても同じ情報だ。

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で、前述の「基準の周波数からちょっと音階をズラす」操作の代わりに、それぞれのシンボルに線や点を描き加えることで単語の幅を持たせれば「28歳の私は刺激の無い人生を無難に選択するの?」はこんな感じに架空のロゴグラムで表現できたりするはず。

 

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ほら、これがエスカレートすればロゴグラムになりそうじゃん?

アルファベットに線引いたやつじゃなくて、抽象的な霞みたいなやつをベースのシンボルとして定義しておけばそれらしいものができそう。

 

実際には映画の中で登場するロゴグラムは、科学技術計算ソフトMathematicaでプログラミングされて生成されている。根本的な考え方がこれまでこの記事に書いて来たとこと通じているといいなぁと思う。

 

github.com

 

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ここへきて映画に絞ったコメントもちょろっと書いておきたい。
ドキュメンタリータッチでアナウンスが入るくだりが中盤で入る。 あのシーンは音楽の神秘的な雰囲気も相まって滅茶苦茶イイよね。人類が知らないことを知ろうとしていくことで扉が開いていく興奮と、分からないことが増えていく困難を想起させる冷たさがある。

 

で、その後で平原にいるイアンをルイーズが呼びに行くシーンがあって、

  1. ルイーズが宇宙船の方を見つめている
  2. イアンがルイーズに「ちょうど君のことを考えていたんだ (You know,I was just thinking about you)」と声をかける
  3. ルイーズが (何を言われるのか気になってちょっと驚いたみたいに)ワンテンポ遅れてイアンの方を振り向く
  4. イアンは「君のやり方は数学者みたいに緻密だ……」と仕事の話をする

という流れで運んでいく。3.の時点でドキッ とさせられつつ、なんだよ仕事の話かよぉ〜となった。(日本語字幕は2.で「君のやり方って〜」と出るのであんまり情緒がないのだが)

 

ちょっと驚いたみたいにワンテンポ遅れて振り向くっていうのは、この時点ではヘプタポッドの言語を習得できていないからこその仕草だ。イアンから彼が思っていることを聞くまで、彼のメッセージをルイーズは知ることができない。ストーリーの展開にバッチリ合った演出だ。

 

でも、もし仮に彼が何というか予め知っていたとしてもルイーズは同じようにリアクションするのかもしれない。


最終的な結果が分かっていても、この瞬間の続きが知りたくなるのが人生なのだから。

 

【レディ・プレイヤー1】Twitterの先の拡張世界、絵の中のメカゴジラ、同じ大地の上のガンダム。

レディ・プレイヤー1

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これ本当に凄い映画だよ。観た後の満足感・喜び・嬉しさがずっとずっと持続する感じがたまらない。版権キャラがたくさん出てきてそれだけで「‼︎」ってなる瞬間の連続だった。

 

本作で描かれてるOasis: 仮想現実世界って、自分にとってのTwitterを中心としたネットの楽しみ方の延長線上に想像力を広げてくれるような感じが良かった。という話をまずしたい。

 

【以後、作品シナリオの核心に触れています】

 

Twitterにおいて、自分がリアルで会ったことは無いけど共通の趣味・話題を持つ人を何人もフォローしてる前提の話。例えば自分がフォローしてる人にオオサンショウウオのイラストをアイコンにした音楽ファンがいたとする。

 

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 7月。オオサンショウウオ氏が「フジロック2日目。そろそろテントから出る」と呟いていたとする。それを見ると自分の頭の中では、上記のアイコンの姿のオオサンショウウオがテントから ズズズズズズズズ…… って這い出して行く光景が浮かぶんだよね。その人が実際はどんな顔してるのかイメージしきれないから、アイコンの姿でそのまま動いてるところを想像しちゃう。

 

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そして他にフォローしてる人でテディベアのアイコンの人が「今日はダフト・パンク楽しみですねー」とオオサンショウウオにリプライを送ったりしてると、僕の頭の中ではオオサンショウウオとテディベアがオオサンショウウオとテディベアの姿でビール飲んだりしながら「フジロックTL」という仮想空間を謳歌してる姿が脳裏に浮かぶんだ。で、オオサンショウウオとテディベアの中の人同士は意外と近場に住んでる同士だったりして。

 

この感じって既に、Oasisのようなアバター世界に感覚的には近いんじゃないかと思う。(今は僕の頭の中の勝手なイメージとはいえ)想像力が拡張する仮想世界で、一人ひとりが、その人が選んだ好きな姿で生活しているんだから。

 

だからOasisは人間を取り巻くネット環境の位置付けという意味では2018年の現実感と地続きの場所だと捉えている。本作では「ネットにばかり入れ込んでないで現実と向き合いなさいよー」みたいな使い古された説教臭いメッセージを発するのではなく、ネットだけの付き合いのつもりだった友人と勇気を出して行動を起こすことで、リアルの地平がこれまでにないカラフルな世界として拓けて行く。そういう現象が、多分今では現実世界でもTwitterのあちこちで起こっているんじゃないか。ネット上の付き合いには良いことも悪いこともそりゃあるんだろうけど、テクノロジーそのものに善・悪があるのではなく、自分が活きる現実世界をより良くするためにテクノロジーの力を他者と一緒に引き出せる人間が幸福な未来に辿り着ける。そんな希望が感じられる映画だった。

 

なんかいらすとや素材の使用によりめっちゃくちゃゆるい感じになったんだけど、ここからガンダム vs メカゴジラのシーンの話に移る。ゴジラファンかつガノタな男子の本領発揮だ!!

 

今回登場したガンダムメカゴジラも、それぞれ何通りものバージョンがあるメカで、その中で敢えて本作用に選ばれたデザインはなんだったのか について。

 
▪️1993年のメカゴジラ

メカゴジラという機体には1974年の「ゴジラ対メカゴジラ」版に始まり「Gフォース版 (1993)」「3式機龍 (2002、2003)」「アニメ版 (2018)」などのバージョンがある*1

 

それぞれのデザインはかなり異なる。今回レディ・プレイヤー1で登場したのは、1993年の「ゴジラ vs メカゴジラ (以下、「vsメカゴジラ」と表記する)」用のポスターに描かれたバージョンに近いデザインだった。「ポスターに描かれた」というのが重要で、vsメカゴジラ本編に登場した機体とは若干デザインが異なっている。言わばコンセプトアート版がポスターに登場していた。こんな感じの超シブカッコいいやつ。

 

 

このポスターバージョンの機体がいつか何らかの形で映像化されたら、スタイリッシュかつ無骨で絶対カッコいいだろうなぁって思っていた。それが今回、スクリーンで大暴れしてくれた。

1993年12月に公開された「vsメカゴジラ」は、同年の夏に公開されて大ヒットした「ジュラシック・パーク」を受けて「恐竜映画ではなく、最高の怪獣映画を目指す」という意気込みで作られた作品だった。実際改めてvsメカゴジラをレンタルで観てみたら、CGに頼らず特撮で表現されたゴジラの表情や戦闘シーンの迫力、格納庫から出撃するメカゴジラの威容は圧巻だった。そこから25年経った今年、T-REXメカゴジラも盛り込んだ「最高のエンタメ映画」をスピルバーグは作り出した。そんな風に、製作側がお互いにモチベーションを受け合っていくのってめちゃくちゃ熱くてイイよね。

 

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▪️台場に立ったガンダム

元々ガンダムのデザインというのは、武士が身につける鎧兜と甲冑をイメージしてモビルスーツのラインにフィットさせたものである。だからトシロウくんのアバターである鎧武者「ダイトウ」が変身し、身体性を拡張させた姿としてこの上なく自然だ。ビームライフルを使わずにビームサーベルだけでメカゴジラに挑んでいったのも日本刀を仮想的に拡大した武器で戦っているということで納得感抜群。

 

レディプレ劇中のガンダムは、右肩に「EFSF」左肩に「WB」というロゴが入っている(それぞれ「Earth Federation Space Force (=地球連邦軍)」「ホワイトベース」のこと)。このロゴマークの組み合わせってなんかのゲーム版を参考にしてるのかなと思って確認してみたら、答えは2009年にお台場に立った等身大ガンダムだった。

 

gigazine.net

 

この等身大立像にも右肩に「EFSF」、左肩に「WB」ロゴのマーキングが施されている。 僕も大学2年生の夏休み、東京でガンダム立像を観に行ったのを思い出した。翌年、東静岡駅前で展示されたので実家 (沼津)に帰るついでに観たっけな。そのときの写真。

 

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Oasisの戦闘で起動したガンダムは、スーパーマンの如くビュンビュン飛び回るヒーローだった。だけど肩には、かつて自分の目の前に立っていた等身大ガンダムと同じマーキングが施されている。あの時、自分と同じ大地の上に居たガンダムOasisで自由に飛べる機体として生まれ変わったような、アツい気持ちが心の中で沸き起こるような感じがする。

 

▪️激突する両雄とキャラクターの末路

そんな風にリアルな世界に実在した等身大ガンダムとの繋がりを持つトシロウ・ガンダムと共闘した主人公は、イースターエッグを手にしてハリデーに会い「リアルだけがリアルなのだ」という言葉に触れる。

 

一方、ポスターの中にだけ存在したメカゴジラを選んだソレントの野望は打ち砕かれ、彼の目論見は絵に描いた餅となってしまい現実のものとはならない。

 

こじつけみたいだけど、各機体のデザインの出所はそんな風に登場人物の末路ともリンクする。

 

……なんかメカゴジラはリアルなやつじゃなかったから まがい物でイカンという論調に取られてしまいそうだけどそんなことは決してなくて、絵の中にしか存在しなかった機体にあんなにカッコよく命を与えてくれる本作は改めて良かったなぁって思うんだよ。あのメカゴジラ起動シーンのカッコ良さといったらない。背骨からブワワワワワーッってさ。


改めて、本当に凄い映画だよ。

 

*1:

((メカゴジラについてはこの動画の解説がとても詳しい。


ゴジラ怪獣をゆっくり解説しようと思い立ってみる 第九回前篇

 

この「ゴジラ怪獣をゆっくり解説しようと思い立ってみる」シリーズは独特なノリとBGM編集が面白いので興味を持ったら最初から観るのがオススメ。

 


ゴジラ ゆっくり紹介 序章

 

【スリー・ビルボード】レッド君のオレンジジュース

2月11日に「スリー・ビルボード」を観てきた。
シネコンで15:45〜の回だったのだけどなんと完売。人気の高さが伺えた。

 

はじめはフランシス・マクドーマンド演じる主人公ミルドレッドの、強い意志の力を持った母という面に惹かれていた。けど話が進むにつれて、ことはそう単純でもなくて、「善も悪も立場・状況・見方によって変わってしまうものだ」という言葉ではよく知ってるつもりのことがキャラクターの悲痛な現実として迫ってきて、どうしようもない悲しさを描く一方で人の優しさ・暖かさが垣間見えるのがとても良かったと思う。
なかでも印象的なシーンについて取り上げたい。

 

【以後、作品シナリオの核心に触れています】

 

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(レッド・ウェルビー) 


火炎瓶投げ込みにより火だるまになったディクソンがミイラのように包帯を撒かれ、自分が暴行を加えたレッド・ウェルビーと同じ部屋のベッドで休むことになる。新しいルームメイトが自分の仇敵とは知らないレッドは「オレンジジュース飲む? ストローもあるよ」とディクソンに勧める。ディクソンはレッドを暴行したのが自分であると明かし、レッドは怒りに震える。

 

このくだりを劇場で観ていたとき、レッドがグラスに注いだオレンジジュースをディクソンにぶっかけて、傷口にジュースが染みる痛みにディクソンが悶え苦しむような絵面を予期してしまっていた。しかしそうはならず、ディクソンの方にストローを向けてグラスを置いてあげた。

 

ここですっごくじんわりした。怒りの連鎖を断ち切ったレッドの勇気に震える。レッドを暴行したディクソンが焼かれる展開には、因果応報とでもいうような納得感があったけど、「怒りはもっとひどい怒りを生むだけ。でも赦しと愛は、もっと大きな寛容さと愛おしさにつながっていく」という言葉*1が言い当てているように、レッドが暴力を捨てることによってディクソンを変えてみせた。

 

そのシーンで渡されるのが「オレンジ」ジュースというのがいいんだ。

 

道路脇に掲げられた3つの看板は赤地に黒文字だったけど、この赤は「怒り」のイメージとして使われていたと思う。そんな赤い看板に端を発するネガティブの連鎖で暴行を受けた、レッドの中に生まれた真っ赤な怒りをマイルドに抑えて、「明朗さ」「希望」を表す黄色をブレンドして出来たような「オレンジ」のジュース。橙色の「活力」「元気」のイメージが、ディクソンが回復してその後活躍していく展開ともリンクする。さらに色だけじゃなくて味についてもいうと、オレンジジュースの酸っぱさ・酸味が (レッドにとってもディクソンにとっても)自分の痛みが消えない悔しさとリンクしているように読み取れた。

 

"forgive" という単語は for (完全に)-give (与える)というのが語源で「赦す」という意味になっている ("forever"は for (完全に)-ever (どんなときでも)で『永遠』になる。そんな風に "for" は『完全』を表すらしい)。

 

自分を痛めつけた相手を赦す・復讐を放棄するというのは、暴力を受けたことを黙って見過ごすことではなく、この場合には相手の痛みにも向き合って、相手がその痛みから元気になるきっかけを与えることなのだと思う。ジュースを渡すなら、ただグラスに注いで置くのではなく、ストローを挿して、相手の手の届く場所に置いて、相手の顔の方にストローを向けてあげる……という行き届いた思いやりで、自分にできることを「完全に与える」ことこそがforgiveなんだと思う。そうやって「僕は君の敵じゃない」という想いをグラス一杯のオレンジジュースに乗せて伝えることで、酷く惨い世界にもやさしい光を灯すことができる。


レッド君を演じたケイレブ・ランドリー・ジョーンズは「ゲット・アウト」でジェレミー兄ちゃんを演じていたけど、主人公にハッサクないし夏みかんを彷彿とさせる黄色い固そうな玉で頭をぶん殴られていたはずだ。オレンジと繋がりの深い役者なのだろう (強引だけど)。

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(ジェレミーアーミテージ兄ちゃん)

 

 

 飲み物をプレゼントするシーンとして、ミルドレッドがレストランでワインボトルを提げて元夫 (と19歳のガールフレンド)のテーブルに向かうところもすごく印象深くて、あれもビンで元夫をバシーンと殴ってしまうんじゃないかとハラハラドキドキしながら観てた。そしたら「その子を大切にしなさいよ」と伝えてビンを置いていった。

 

この場面にもオレンジジュースのシーンと似た意味合いが見い出せる。相手に対する怒り・不満を抑えて、負の感情の連鎖をやさしさ・慈悲で包んで止めようとしてみせた。ワインだって酸っぱいしさらに渋みが加わるので、悔しさ・やるせなさは残る感じも通じている。


ただしオレンジジュースとワインでは時間・手間のかかり方が違っていて、それがミルドレッドにとっての苦難な時節の長さと重なるように思える。オレンジジュースは (実際の工程はそんなにシンプルでもないんだろうけど単純化すると)新鮮な柑橘をしぼったらできるけど、ワインはもっともっと長い時間をかけた発酵・熟成等のプロセスが必要になる。もちろんレッドの痛みがすぐに回復するということは無くて、横暴な警官に突然の暴行を受けたことで仕事が元のようにできるかどうかも定かでないし、後の人生にずっと残り続ける大きな心的外傷を負ったかもしれない。そういう点はオレンジジュースのようにリードタイムは短くない。いずれにせよともかく、レッドのトラウマはディクソンに急襲された日を起点とするものだ。

一方でミルドレッドにとっては、夫の暴力があったり、娘さんと口論していたり、娘は夫と住むべきなのかという葛藤を抱えたりと、家庭の問題として彼女の抱える苦しみ・痛みはレイプ事件の前々からあった。そんな昔からのことも含めて、長い期間いろいろあったことを受けても、元夫に怒りをぶつけるのではなく赦しを贈ったのがワインボトルを置くシーンだったと解釈している。実際にワインが生成できるほどの長い年月でもないかもしれないけど、レッドよりも人生経験の長いミルドレッドが、ジュースよりも長い時間をかけて生まれるワインのボトルを握っていったのは雄弁な演出だったと思う。


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ほか、この映画で印象的だった点。

■ミルドレッドの息子: ロビー役のルーカス・ヘッジス君。彼は「マンチェスター・バイ・ザ・シー」で複雑な年頃のティーンエイジャーを演じていて、それを刷り込みみたいにしてしまうのって良くはないんだろうけど「バイ・ザ・シー」での彼の役どころのイメージを持って本作を観ることで難しい家庭の印象がすんなり伝わってきた。そういえば彼が食べていたシリアル (ぶちまけられて髪に付着してしまう)はFruit Loopsだった。オレンジ、ワインときてここも果物。


■レイプ事件に遭った女の子の部屋にニルヴァーナの「イン・ユーテロ」のポスターがでかでかと貼ってあった。あれがめちゃくちゃいい。トガった女の子が聴いてそうというイメージもあるし、カート・コバーンが自殺する前に製作された最後のアルバムということもあって死・事件性を連想させる点も秀逸だと思う。「イン・ユーテロ」という単語は「子宮内」って意味なので経血・血肉から「赤」のイメージがある。看板は赤地だし、広告屋「レッド」って名前だし、何かと赤と関連づく。


■警察署でウィロビーとミルドレッドが話していて、会話の途中でウィロビーが吐血してしまうシーン。あそこで血を吐くまで、ウィロビーが喋っているときはくすんだ色の壁が背景になり、絵画的だった。絵というよりはむしろ、遺影のような静的なイメージに見えた。一方、ミルドレッドは窓の光を背にして座っている。自分の前に影ができるようなポジションだ。これは自分が選んだことがこれから自分に辛苦をもたらすことの暗喩のように取れた。

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オレンジジュースに話を戻す (雑談)。

日本の業界団体の独自ルールなのかもしれないが、オレンジジュースやグレープジュース等、商品名にジュースと書いていいのは果汁100%のものだけと決まっているらしい。だから100%より果汁含有量 (率?)が小さいタイプの商品はパッケージのどこにも「ジュース」とは書かれていない。小さい頃は果汁100%の「健康優良飲料でございます」的な優等生感よりも、なっちゃんバヤリースのジャンキーな親しみやすさの方が好きだった気がする。

 

今ではジュースよりもお茶を飲むことが多くなったのでオレンジペコ

 

ハッシュタグひとつで新しい扉が開いていったときのふりかえり

映画を観て感想をTwitterに投げるのは、手紙を詰めたビンを海に流しているような感覚だった。基本どこにも行き着かないけど、誰かが拾ってくれたらうれしいなぁという感じ*1

 

でも、神戸・元町のカフェで集まって今月のお題の劇場公開映画作品について語らう会: マンスリーシネマトークというイベント (主催の団体は cinemactif さん)に4月から参加するようになって、テーマの映画に対するいろいろな方の感想を直に聞くことで、より楽しくヴァイブを共有する体験を重ねることができた。4月〜9月の6回連続で参加したので振り返る。

 

【4月】

4月22日 (Sat)に「T2トレインスポッティング」をレイトショーで観た。とても面白くて、翌朝Twitterを見ていろいろな人の感想をチェックしていた。そんな中、ハッシュタグ「#T2トレインスポッティング」でこのツイートを見つけた。

 

 

イラストから、お手柔らかそうな雰囲気の会だから面白そうだな、という印象が伝わってきた。神戸までは自宅の最寄り駅から電車で30分程度で行けるので、足を運んでみようと思い立った。これが、マンスリーシネマトークとの出会い。

 

参加してみたところ和気藹々とした感じで、はじめてで緊張したけど面白かった。作品を支持する/支持しないを決めたうえで感想を語っていくということで、僕は「支持する」を選んだ。そのとき喋ったのは確かこんな内容だった:

 


政治集会のようなところにレントンとサイモンが侵入し、財布を盗んで逃走しようとしたところ否応なしにステージに上げさせられてしまうシーンが好きだ。サイモンがピアノを(弾けないんだけどテキトーなフレーズを繰り返すことで場を繋ぐように)弾き、レントンが思いつきの歌を載せることで場が一体になって盛り上がっていく。そして高揚感が最高潮に達したところで「Lust for Life (The Prodigy Remix)」が流れ、レントンとサイモンはダーーーッ!!と逃走する。

 

このシーンは、人前で即興で一曲披露して場を切り抜けるだけの度胸と才覚を身に着けた2人が、結局やんちゃなコソ泥らしく疾駆していくということで、「悪ガキらしさを保ったままタフになって帰って来た」感じがすごくいいなぁと思った。

 

ちなみにそれは、そこで流れたLust For Lifeのリミックスを手掛けたアーティスト、The Prodigyの活動の歩みと重なるところがある。彼らも1997年のアルバム ("The Fat of The Land")が大ヒットした後、メンバー全員がガッツリ取り組んだアルバム ("Invaders Must Die")が放たれる2009年まで12年の歳月があった。前線復帰作となったその2009年のアルバムには、まさしく「ワルそうな魅力はそのままに、剛くしなやかでビッグになって帰ってきた」感があった。だから彼らがLust for Lifeのリミックス版を手掛けるのは超納得。すばらしい人選だと思う。

 

初参加で緊張するのが目に見えてたので「このシーンいいよね」と語れるポイントを整理してから行こうということで上記のネタを仕込んで臨んだ。実際はもっと気軽に、その場で作品を思い返しながら喋っていく感じでOKだった。楽しかったので次回も参加することにした。

 
【5月】

お題は「メッセージ」。原作の小説「あなたの人生の物語」を読んでから観た人 or 映画からダイレクトに入った人 それぞれの感想を聞くことができた。僕は読んでから行った。この映画は圧倒的にすばらしい作品なのは間違いないんだけど、
・ヘプタポッドは、この先に何が起こるかを自明のものとしていること
・ヘプタポッドは、円環状の文字を使うこと
の関連性が映画からは読み取りにくくて、2次元的な表記法とは無関係な超能力みたいに未来が見通せる印象を与えかねないのは勿体ない気がした。そんな話をしたら、そこにどういう関連があるのかを僕なりに説明するということになった笑


2次元的な描画表現が時系列的逐次処理の概念を突破できるっていうのは、日本のマンガを例に出せばイメージしやすい。たとえば、登場人物が声に出して喋ってること (吹き出し)と心の中で思ってること (もくもくした吹き出し)を同時にひとつの画面 (紙面)に出せる強さがマンガにはある。活字や音読だったら、セリフと思惑のどちらかを先に処理して後から残りを伝達する形になるけど、絵なら両方同時にパッと出せる。

 

同様に、何人もの人が同時に誰か (聖徳太子みたいな誰か)に話しかけているシーンがあるとして、全員分のセリフを同時に画面に出すことができる。一人ひとりのセリフを逐一伝達していくのではなく「最終的にどうなるかが最初から分かる」伝え方ができる。ヘプタポッドの文字には書き順がなく、最終的にどうなっているかが最初から判っていなければ作り出せない。彼らはそれができるパラダイムで生きているから、あの円環文字が使える………と僕は解釈している。

 


【6〜9月】

それから9月まで毎月参加し続けた。5月の会の後、僕がスター・ウォーズ大好き野郎だということでcinemactifメンバーだったAyumiさんからお誘いがあり、元町映画館でのトークイベントに登壇させていただく運びとなった!

 

僕がイワキです。

 

 

 

これはAyumiさんだけでなく、#twcnポッドキャストのタキさんとも一緒に壇上で喋るという大変光栄な機会になった。

twcn.pw

好きなコンテンツについて魅力を発信するためのプレゼンの場に立てるという、貴重な舞台を踏めた。ご来場くださった方々、会場・元町映画館さんに改めて御礼申し上げます。

 

8月頃になると、マンスリーシネマトークの会場であるカフェ: ガトー・ファヴォリさんには何度も足を運んでいることから注文する飲み物が自分の中で固定化されてきた。いつも「季節のブレンド、フレンチ・プレス、ホットで」と言うことにしている (これはコーヒー)。店員さんが「メニューをお持ちしますね」と言い終わったくらいのタイミングで「季節のブレンド、フレンチ・プレス、ホットで」とメニューも見ずに唱えるようになっていた。

 

参加人数は会によって10人弱〜18人程度で変動するけど、行く度に新しい発見があり、ある点と思いもよらない別の点が繋がっていくような、それでいてふわりとした柔和な雰囲気の場になってるので楽しい。自分が作品と向き合った体験を、他の方の鑑賞体験を聞くことで見つめ直すことになる。

 

 

(ここから、映画の見方そのものに対する超個人的な印象論に入る)

 

 

「作品と向き合う」過程って、映画を観る行為を単純化して「作り手」「作品」「受け手 (=自分)」の3要素で捉えると、

1. 作り手と受け手の間には歩幅にして2歩ぶんの距離がある
2. 作り手は一歩前に踏み出し、地面に作品という旗を突き立てる

みたいなプロセスをまず思い描くんだよね。旗ってこんな感じ↓↓

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 そしたら受け手としては、上記の1&2が行われる様子を眺めてるだけでも面白いし、暇つぶしにもなるんだろうけど、自分からも前に一歩踏み出して、その旗に手が触れるように掴みかかるのが「向き合う」ために必要なことだと思ってる*2。この受け手側が手を伸ばすような能動的なアクションっていうのは決して大それたことじゃなくて、「好きな俳優が出てるからその役のシーンは見逃さないようにする」とか「予告編のあの場面が面白そうだからどこで使われるか楽しみに待ち構えとく」とか「〇〇さんが▲▲っぽいって言ってたけどマジなのか確かめに行く」とか、要はその人なりの楽しみ方のことだと捉えてる。場合によってはそれが、ディテールを読み解いて作品自体のテーマとの連関を見出そうとするようなするような作業になったりする。それはすごく楽しい。

 

そしてマンスリーシネマトークに参加するとね、自分の手がその旗に触れた瞬間の感触みたいなものがよりクッキリしてきたり、あるいは気づいていなかった暖かさ・冷たさ・湿り気・ささくれを後から発見できたりする。ある作品をテーマとして共有しながら自分以外の方の感想を肉声で聴くというイベントは、そういう効果をもたらしてくれると思う。テーマの映画に纏わる思い出として自分の中で暖かく膨らんでいく。

 

参加されてる方とは、立誠プロムパーティに一緒に行ったり、講談師: 神田松之丞さんが高座に上がるイベントで偶然出くわしたりして、マンスリーシネマトーク以外でも交流するようになった。要は、普通に生活する上で楽しいことが増えていった。そのきっかけは元をたどれば「#T2トレインスポッティング」のハッシュタグだった。

 

冒頭で「手紙を詰めたビンを海に流して~」って書いてたけど、直に伝えられる場に出会えてよかった。改めて、マンスリーシネマトークというイベントに、そして会を実施・運営されているcinemactifさんに心より感謝申し上げます。

 

そういうわけで、関西で生活するようになって来年で10年になるんだけど今年になって神戸という土地が本当に思い出深い場所になった。

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 さて、cinemactifには東京支部があり、東京でもマンスリーシネマトーク (その名もMCTT: MONTHLY CINEMA TALK TOKYO!!)が2017年11月から開催されている。是非チェックを。

 

2018年も、ビンを流していた浜から漕ぎ出たFriend Shipで、実り多き出会いがありますように。

*1:この比喩の元ネタは、音楽ライター: 田中宗一郎さんと柴那典さんの対談記事にある。リンク先で3分の2くらい読み進めたところの「批評は投瓶通信だから。要するに……」のところにインスパイアされた。 

silly.amebahypes.com

*2:「自分と相手の間には2歩ぶんの距離があって、受け取る側が一歩前に踏み出すことで作品が意味を持つ」というのは、BUMP OF CHICKEN藤原基央さんが2004年のアルバム「ユグドラシル」発売期にインタビューで語っていたことの引用。「旗」というモチーフは藤原さんの言葉にはなくて、BUMP OF CHICKENの楽曲「メロディーフラッグ」に僕がインスパイアされているだけの気がする。