時計じかけのオレンジを劇場で見た翌日にJOKERを観ての感想
【※表題の2作品についてのネタバレを含むので未見の方はご注意願います】
2019年10月5日。「午前10時の映画祭」で時計じかけのオレンジを観た。
この作品を初めて観たのは5年半くらい前。レンタルDVDで観た。冒頭40分くらいの、可視化された狂気とも言うべき鮮烈な映像の虜になったと同時に「こんな不道徳で残酷な仕打ちが楽しそうに見える自分は、異常なのか?」と思えてきて空恐ろしくなっていた。そういう怖さにゾクゾクさせられる体験により、自分がオールタイムベストを聞かれた時に真っ先に挙げる、好きな作品になった。
そんな時計じかけのオレンジをスクリーンで、しかも立川シネマシティのハイスペックなサウンドシステムで体験できた。優美に鳴り響くベートーヴェンの音楽がたまらない。
この作品が、いわゆる暴力・性暴力などの「悪いこと」を治療によって抑圧しようとする権力者と、その治療の影響から解き放たれ、自らの衝動に基づいて行動するように「完ぺきに治った」アレックスを通して、正義や善悪を自らの意思で選択するかどうか、をテーマの1つに据えているのだと改めて実感できた。
そしてその翌日にJOKERを観た。
(ポスターから作ったイメージ画像)
以下、作品のタイトルを「JOKER」、作中のキャラクターを「ジョーカー」と記載する。
JOKERで印象的なのは、社会に蔓延する怒り・悲しみ・憎しみがゴッサムシティに住む人々の間に蔓延し、このクソ過ぎる世の中に変わって欲しいという願いが積み上がった背景があって、シンボルのようにジョーカーというキャラクターが生まれてくる筋書きそのものだった。現実に現代社会で起きている社会のストレスの急上昇こそが油断ならない不安全状態であることを喝破している。
例えて言うなら、ジョーカーがマッチに灯った火だとして、ゴッサムシティという箱庭を可燃性の気体で充満させたのは社会の側だった。
本作のジョーカーは、ダンスはとっても素敵だけど武術の達人というわけではなく、知能犯というほどとびきり頭がキレるわけでもなく、それでも圧倒的なカリスマ性を帯びた悪として劇中に誕生する。
それは彼が「何が笑えるか、何が悪かは自分で決める」ことを選択したからだと思う。その容赦無い意思決定力を獲得するに至る絶望の恐ろしさが心に突き刺さる作品だった。
時計じかけのオレンジとJOKERに共通するのは、「善悪の規範を他人や社会では無く自分で持つ人」というテーマだと思う。そういうキャラクターが僕は好きなのかもしれない。PSYCHO-PASSの槙島聖護はまさにそうだと思う。
何がおかしいかは自分で決めてよい。
そう言われると、自分の内側に力が漲ってくるような気がする。
この記事の冒頭で、はじめてDVDで時計じかけのオレンジを観たとき「こんな残酷な描写が楽しそうに見える自分は、異常なのか?」と感じたことについて書いたけど、ここでいう異常かどうかっていうのは常識や社会通念が用意するモノサシを気にしているのであって、僕が、それがめちゃくちゃ楽しいと認識すれば、それは、めちゃくちゃ楽しいのだ。そういう肯定感に繋がる力が漲ってくる。
でもそんな風に思っていたら「気に入らない人間は痛めつけて良い。自分にはそう判断する自由がある」ということになってしまう。世の中が惨たらしい暴力で溢れていくばかりだ。どうしよう。
「何が悪かは自分で決める」ということは、裏を返せば「善き行い」こそ、他人の目や社会のルールではなく、私たちが自分の意思に基づいて執行しなくてはならない。
例えば差別的な発言による炎上のニュースがよく話題になるけど、「日本国憲法前文に書いてあるから人権が大事だ」とか「コンプライアンスは今のトレンドからすると要注意なんだ」みたいに、外部に規範求めて誰かを叩いたり或いは擁護したりしても、結局それでは、どうしていけないのかを自分で判断できていないと思う。
私たち自らが、何が正しいか、何が幸福に繋がるかを、自らの内なる規範によって選ばなくてはいけない。たとえ、よかれと思ってしたことが悲しさや憎しみを生んでいくことになるとしても。
世界がおかしくなっているのはもう「前提」となってしまった。だからこそ、何が「よい」とするかは私たちに一層シリアスに問われている。JOKERも時計じかけのオレンジも、その問いかけを鮮烈に突きつけてくる作品だった。
【余談】
ところで、JOKERで描かれている格差の広がり、貧困の拡大というのは今の日本でまさに起きている問題であって、そんな日本の状況に対する批評に切り込んでいたのが「天気の子」だったと思う。
「バーニラバニラ高収入♪」ソングが “東京らしさ”の一端として鳴ることは非正規雇用を増やして持続している日本の経済状況の象徴だと思うし、陽菜たちが食べるごはんによって、若い子たちが直面する貧しさを愚直に描いている。
JOKERもUsも天気の子も、既存の社会や体制が用意したセーフティネットの外側にいる人による大きな変革を描いている。だから今年の日本で「天気の子」が上映されたことが (売れてる長編アニメ映画監督が社会と向き合ってエンターテイメント作品を作り上げたという意味で)とても頼もしいように改めて感じられた一方で、日本の行く末に対する油断ならない不安が一層大きくなった気がする。